玉ねぎ

つい昨日読んだ刀語1のあとがきに

たいていの場合、人間の人生を右左に左右し
決定的に決定づけるのはたぶん「何ができるか」じゃなくて
「何ができないか」なんだろうなあと...

奇しくも最近読んだ四畳半神話大系にも
同じような事が書かれていて

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。
我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、
我々がもつ不可能性である」

刀語 第一話 絶刀・鉋 (講談社BOX)四畳半神話大系 (角川文庫)


プロ野球選手に今からなれるかって言ったら当然不可能で
出来ることといえば
好きなチームを応援するか草チームでほのぼのプレイするとか。
そんなふうに線引きして割り切れるものならば簡単でいいが。


たとえば自分の結婚を考えた場合
この歳でバツ1ならもう無理っす。
でも1度経験出来たからいいじゃない。
1度出来たらなら2度だって出来るだろう。
おじさんは還暦前に再婚したぞ。
いや経済的に厳しいって。
そもそも相手がいないが。
探す努力は出来るんじゃないか結婚はともかく。
今更恋愛にチャクラを大放出するほどパワーがあるのか。
と、出来るのか出来ないのか可能なのか不可能なのか
堂々巡りを繰り返すばかりだが
これはピントがズレているな。


出来るのか出来ないのか、何が出来ないのか
それは大概の場合は
もしかしたら出来るかもしれないという
かもしれない幻想を削って行くことなのだろう。
ただこの幻想を削っていったら
何を楽しみに生きていくのだろう。
出来る事だけ鋭く尖らせていっても
それだけで自分を支えて行く自信などこれっぽっちもない。
むしろ
もしかしたらの方が人を支えているのだろう


出来ない事、可能でないことをもって存在証明とするならば
存在証明出来ないことをもってそれを存在証明とする。